楽園の在り処
天使が空から降ってきた。
頭上から突然の襲撃を受けたシーザーは、蛙が潰れたような声を上げて倒れる。
痛い。
そして、重い。
背中に感じる圧力に、いつまで乗っかってやがるという叫びと共に起き上がる。
勢いをつけて背中から転げ落ちる影。
それを目にしたのは瞬間、シーザーは眼を丸くした。
自分は頭を打った衝撃で死んでしまったのだろうか。
不思議そうに小首を傾げる天使が、目の前に座り込んでいた。
「…嘘だろ、オイ」
天使を比喩したのではなく、文字の如く背中に翼を生やした十二、三歳くらいに見える少年。
微かに動くミルク色の羽が作り物でない事実を示していた。
信じられない。
こんなことがあって良いのか。
頬を抓ってみても、痛みが現実であることを教えるだけだった。
「お迎えが来たってか?」
笑えない冗談である。
天使に遭遇するなど、誰が予想出来ようか。
子供、しかも得体の知れない存在を前に、シーザーはどうするべきか困り果てた。
しかし、戸惑っていたのは目の前の天使も同じようで、キョロキョロと辺りを見回した後、シーザーの顔を不思議そうに見上げた。
見なかったことにして、この場を立ち去るべきだ。
そう思うのに、澄んだ眸に見入られて動けない。
小首をこてんと傾げられ、はにかんだんだ刹那、シーザーの心は完全に落ちた。
なんて愛らしい生き物なんだ。
抱き締めたい衝動を押さえ、シーザーが微笑み返すと、頬を染めて恥ずかしげに視線を落とした。
感情に反応したのか、パタパタと背中の羽根が動く。
そのまま天使の脚が地面から離れ、数センチ浮上した。
もしかして、そのまま飛び立ってしまうのでは。
慌てたシーザーが手を伸ばすより先に、ドスンと鈍い音が響く。
尻餅を着いた天使は、眼を丸くして固まっていたが、すぐに気をとり直すと再び翼を羽ばたかせた。
今度は、動くだけで全く持ち上がらない。
何度繰り返しても、結果は同じ。
次第に天使の顔色は悪くなっていった。
バサバサと虚しい音をたてるだけの翼。
枚散る羽根が痛々しくて、気づけばシーザーは自分より小さな身体を抱き締めた。
「大丈夫だ」
安心させるよう殊更優しい声で呼び掛ける。
シーザーのことをすっかり忘れていた天使は、驚きで動きを止めた。
大人しくなったのを確認して、腕の中を覗き込む。
天使の眸は潤み、今にも涙が溢れてしまいそうだった。
一回り小さな手でシーザーのシャツをギュッと掴んだのは、隠しきれない不安のせい。
吸い寄せられるまま、目尻にキスを落とすと、天使はくしゃりと顔を歪め。
「…どうしよう」
風に消されそうな暗い弱々しい声で、助けを求めた。
シーザーは、もう一度大丈夫だと頭を撫でながら宥める。
地上に落ちた天使は、どうやら自力で帰れそうになかった。
つまり、それは神がシーザーにこの存在を与えたということだ。
他の誰でもない自分のもとにやって来たのだから、間違いない。
運命を信じるシーザーは、行き場を失った天使の手を強く握りしめる。
「俺が居るから」
もう心配要らない。
穏やかな声に導かれるまま、天使は迷うことなくシーザーの手を握り返した。
運命を手に入れてから、どれほどの月日が流れただろう。
ベッドで隣に眠る愛しい存在の髪を撫でながら、シーザーは廻り逢った日のことを昨日のように思い出していた。
ジョジョと名乗った天使は、以前からシーザーを知っていたという。
「シーザー!シャボン玉出してくれよ!」
シーザーの後を雛鳥のように付いて回るジョジョは、度々シャボン玉を作れと強請った。
何でも、シーザーのことを眼に留めた切欠が妹の為に飛ばしたシャボン玉だったという。
空高く舞い上がる球体は、日の光で色を変えてとても綺麗だった。
うっとりした表情で語るジョジョは、随分とシャボン玉を気に入っているようである。
妹をあやす為の玩具が此処で役立つとは、思わなかった。
簡単に心を開くあたり、天使は警戒心が弱いのかもしれない。
フラフラと可笑しな人間に着いていかぬように注意すれば、ジョジョは頬を膨らませた。
「シャボン玉もそうだけど、シーザーだから気になったのに」
ボソリと呟かれた嘆きは、シーザーを喜ばせるには十分過ぎた。
ジョジョもシーザー同様、何かを感じてくれていたらしい。
「シーザーの髪は蜂蜜と同じで、眼はお日様に透ける若葉色。どっちもキラキラしてて綺麗なんだぜ」
無邪気に話す天使は、好きだから見ていた。
シーザーと出逢った日も同じ。
見惚れていたせいで、うっかり落下してしまった事実を告げた。
ふわりと笑う姿に、幸せを感じる。
決して手離したくないと強く願った。
満たされた分、シーザーは失うことが怖くなる。
ジョジョは美しい物を好んだ。
天使の性も関係しているのかもしれない。
真っ直ぐで濁りのないジョジョを微笑ましく思う一方、明日にでも自分のもとから飛び立ってしまうのではないかという不安が胸を掻き立てた。
どうしたら、ジョジョを腕の中に留めておけるのか。
考えたシーザーは、まずジョセフを抱いた。
契りを結んでしまえば、交わってしまえば、もう嘗ての場所に戻れなくなるに違いないと思った。
しかし、ジョジョはシーザーの欲に汚されても美しかった。
愛していると甘く囁くシーザーの腕の中で、嬉しそうに笑う。
身体を繋げる行為の意味や、理由をこの天使が理解しているのかシーザーは分からない。
与えられた分以上に愛を返そうとするジョジョは意地らしくもあり、神の遣いらしくもあった。
まだ、駄目だ。
天使が目の前から飛び立つ光景が、シーザーの頭から離れない。
脳裏に焼き付く、広げられた純白の翼。
これさえ無ければ。
そうだろ。
だって神はシーザーに味方したのだから。
空へ羽ばたく為の翼など、ジョジョに必要ない。
彼を構成する全てを愛おしく感じていた。
だからこそ、奪ってしまうのは憚られたが、翼を失ったジョジョの姿を想像してしまえば、迷いは消えた。
どんな姿でも、彼であることにかわりないのだ。
痛みを与えたくなかったから、ジョジョを抱く時に限って少しずつ羽根を摘んでいった。
熱に浮かされ、揺さぶられるジョジョは僅かな痛みに気づかない。
来る日も、来る日も、腕の中の天使が飛び立たないことを祈りながら、羽根を奪い続けた。
ベッドに散らばる羽根を拾い集めては、鍵付きの箱の中に仕舞っていく。
この箱が満たされる頃には、シーザーの願いが叶うはずだ。
「…シーザー」
「どうしたんだ?」
「背中が傷むんだ。羽根も前より上手く動かせない」
時が経つにつれ、ジョジョが翼の不調を訴えるようになった。
シーザーのもとへ落下した日から翼の状態が悪化していると考えるジョジョは、シーザーを疑わない。
その度、シーザーはジョジョの背中や羽根にキスを降らせた。
「…んっ」
「大丈夫だ、ジョジョ」
もうすぐ、不安も無くなる。
中途半端な状態だから、辛いのだ。
もう二度と羽ばたけないと知れば、空を飛んでいたことも次第に忘れる。
何故なら、ジョジョの在るべき場所は、シーザーの腕の中しか無いからだ。
運命を定めた神は、確かに居た。
シーザーが待ち望んだ日。
部屋の床には、真っ白な羽根が散乱していた。
これら全てを集めたら、あの箱は溢れるに違いない。
窓の外を見つめる背中を見つめ、シーザーは口元を緩めた。
朱色の花弁がいくつも散る肌には、純白の羽根は一枚もなかった。
翼があった場所に、微かに傷痕が残るだけだ。
その痕は、決して消えないだろうという予感があった。
それで良い。
儚げな後ろ姿をそっと抱き締め、傷痕を舌で何度も舐め上げる。
ジョジョは、声を殺して帰れないと泣いていた。
哀しむ必要なんて無いのに。
「ジョジョ」
「シーザー、俺…」
名前を呼んで髪を撫でると、振り向いたジョジョが抱きついてきた。
「俺がずっと傍に居るから」
大丈夫。
楽園が欲しいなら、翼が欲しいなら、与えてやるから。
二人しか存在しない世界と、集めて繋いだ決して動かない羽根を。
「愛しているよ、運命の君」
ベビーピンクの唇に祝福のキスを贈る。
新たな誕生の日に感謝を込めて。