Don't call me
何で人の席に座っているんだ。
教室に入るなり、自分の所定の場所に陣取っている男を見つけ、ジョセフはギリッと奥歯を噛んだ。
シーザー・ツェペリ。
ジョセフが校内で最も苦手とする人物だ。
女好きでフェミニスト気取りのキザ野郎。
歯の浮くような台詞と貼り付けた胡散臭い笑みに、寒気を覚えたのは、かなり前のことだ。
初対面から印象は最悪。
互いに馬が合わないと感じて殴り合って以来、ジョセフとシーザーは小さなことで諍いを繰り返している。
「あのスケコマシめ」
嫌がらせか。
見たくない顔を朝から見せられるこっちの身にもなれ。
いっそ、このままサボってしまおうか。
不毛な言い争いをするより、ずっと楽に思えた。
アイツとは喋りたくない。
今までもシーザー相手に、口喧嘩では負けたことのないジョセフだ。
文句の一つでも言ってやりたい気持ちもあるが、相手だって黙っていないだろう。
シーザーの声を出来る限り耳に入れたく無かった。
それは、単純に気に入らないとか、喧嘩に発展するとかそういった類の理由ではなく、ジョセフが切実な悩みを抱える故のことであった。
自分以外の誰にも知られていないからこそ、回避することを密かに心掛けているのだ。
「やっぱり、サボろ」
入り口で回れ右をしようとしたジョセフ。
しかし、シーザーから視線を逸らすより先に相手と眼が合ってしまう。
ジョセフを認識するなり、吊り上げられる口元。
「チッ」
鼻で笑いやがった。
此処で逃げるわけにはいかないだろう。
負けたと思われるのは、絶対に嫌だった。
「そこは、てめーの席じゃねぇだろ」
ズカズカと大股で歩いてシーザーの目の前に立って見下ろす。
ジトリと睨みつけられても、怯むような男じゃあない。
両手を広げ、首を横に振ったシーザーは、自分が譲歩してやったと言わんばかりの態度で、椅子から立ち上がる。
「悪かったな、ジョースター」
去り際、耳元に唇を近づけて囁かれる言葉。
ギクリと肩を跳ねさせるジョセフに、シーザーは口端を吊り上げた。
あの野郎。わざとやりやがった。
「可愛い反応するんだな」
可愛いなんて微塵も思っていないだろうお前。
厭味以外の何でも無い台詞を吐くシーザーに向って、ジョセフは思い切り舌を突き出した。
「…どこまで気付いてんだか」
シーザーがジョセフの視界から消えたところで、思わずため息が零れた。
喧嘩を繰り返すようになって暫くして、気付かれてしまったことがある。
やりとりの中でジョセフが小さく動揺し、警戒する瞬間があるという事実だ。
その瞬間や原因までは知られていないのが、不幸中の幸いである。
トランプで表すならジョーカーであるそれは、決して相手に握らせてはならないものだ。
「絶対探ってやがる」
ここ数日の接触がやたらと多い理由に思い当たり、自然と表情が強張る。
出来るならば、関わらずに学校生活を送りたい。
けれど、周りが見慣れるレベルで日々言い合いを続ける二人だ。
ジョセフが避けたら、絶対に不自然に思われる。
何より逃げる素振りを見せてしまえば、原因を追究しようとするシーザーに追いまわされる気がした。
「どうしたもんかね」
シーザーより後ろの席であることを幸いに、憎き男の背中を見つめながら、ジョセフは項垂れた。
そして、元々のシーザーの席に座ったことを確認し、ジョセフはひっそりと教室を抜け出す。
このまま教室に居るとボロが出てしまう気がした。
先刻、耳元で囁かれたせいでジョセフの心拍数は一気に上昇している。
表情には出ていないと思いたい。
赤く染まる顔をシーザーに目撃されたら、問い質されることは確実だ。
正面であれこれ言われて、平常心を保てる自信が無かった。
落ち着くまでシーザーから離れなければ、色々とまずい。
たとえジョセフが教室から姿を消したことに気付いても、わざわざ追いかけて来ないはずだ。
大丈夫だろうと判断して向かうのは、屋上。
天気も良いし、暫く寝るのも悪くない。
人気のない階段を上り、閉められた扉を開け、フェンスにもたれ掛って座り込む。
雲一つない青空。
瞼を閉じたジョセフは、段々と落ち着いてきた心音にひとり安堵する。
脳裏に浮かぶ、シーザーの小憎たらしい顔。
想像の中で唇が動いた瞬間、慌てて目を開けた。
声は駄目だ。
記憶に残る音が脳内で再生されそうになったところで、無理やり遮断する。
シーザーを避けて屋上に来たくせに、思い出していたら世話ない。
意識してしまっている自分に、溜息が零れた。
こんなことが続けば、気付かれるのも時間の問題だろう。
知られるわけにはいかないというのに。
嫌いなあの男の声に惹かれているなんて、そんな愚かなこと。
馬鹿にされるか、顔を顰めて気持ち悪いと罵られるか。
シーザーにどう思われようと構わない。
近寄るなと吐き捨てられたら、いっそ清々する。
そこまで考えて、首を横に振った。
嘘だ。
心底いけ好かない奴だが、声だけは気に入っている。
むしろ、好みだ。
今まで出会った人間の中で、一番心にグッと来たと言っても過言では無かった。
雑音の中で特別に響いた音。
理屈じゃない。
心揺さぶられた瞬間をジョセフは覚えている。
あの声が聞けなくなるのは、辛い。
自分に喋りかけられると動揺してしまうから、直接話したいとは思わないものの、少し離れた位置で耳を澄ませるのをジョセフは密かに楽しみにしていた。
公には、顔も見たくないし声も聞きたくないと主張する一方、シーザーの声だけちゃっかり識別して、聞き耳を立てているのだ。
「悔しいことに、アイツの声だけは好きなんだよなァ」
顔もそれなりに悪くないけど。
女子が騒ぐのも当然なのだろう。
ジョセフからしてみれば、顔は声の二の次になるから、同意しかねるところだ。
「アイツって誰だ?」
「ああ? シーザーだよ。シーザー・ツェペリ」
「へぇ」
「……」
ちょっと待て。
今、何か聞こえたぞ。
誰も居ないと思ってノリで答えてしまったが、第三者が居ることは間違いない。
というより、めちゃくちゃ聞き覚えのある声だ。
いつも聞き逃さぬよう注意を払っているから、分からないはずが無かった。
「面白い話をしてるじゃないか」
「ひっ」
瞬く間に肩へと回された腕。
唇が僅かに耳たぶに触れて、思わず小さな悲鳴が漏れた。
反射的に仰け反るも、がっしりと肩を掴んだ手が離れることは無かった。
「て、てめー。いつから其処に!?」
「さあな」
「すっ呆けんな! 聞いてたんだろ」
「何を?」
距離を取ろうとするジョセフを、シーザーが強い力で引き戻す。
互いの力は、ほぼ互角。
分が悪いのは、間近でシーザーの声を聞く羽目になったジョセフの方だった。
「答えろよ」
「耳元で喋んな!」
「困ることでもあるのか?」
クツクツと喉で笑うシーザーに、ジョセフは唇を噛んだ。
秘密が露見した時点で、勝ち目は無かった。
畜生。
良い声しやがって。
「煩ぇ! 離せッ!」
「嫌だ」
「頼むから、喋んな!」
本当に勘弁してくれ。
耐えられない。
「どうして?」
「どうしても!」
「俺の声が聞きたいんじゃないのか?」
「聞きたくねぇ!」
「嘘だな」
「嘘じゃない!」
首を横に振って否定するジョセフに、シーザーが畳み掛ける。
耳を塞ごうとした手は、簡単に阻止されてしまった。
「本当にそうなのか…ジョジョ?」
少しの間を開けて、呼ばれたことの無い名がシーザーの口から紡がれる。
ドクンッと一際大きく心臓が跳ねた気がした。
誰かに向けられる甘い囁きよりも、胸を打つ音だった。
「ジョジョ」
再び呼ばれ、これが駄目押しとなる。
今度は、耳を塞ぐことを邪魔されなかったけれど、今更塞いだところで間に合わない。
耳に残る音が、何度も何度も再生される。
「クソッ」
唸るジョセフが元凶を睨みつけると、シーザーは玩具を見つけた子供のように目を細めた。
間もなくして、ジョセフとシーザーが和解したと言う噂が校内に流れた。
喧嘩していた二人が談笑しながら、日常会話を交わしている。
しかも、厭味の応酬や口論をしているわけではない。
今日は雨どころか、槍が降るかもしれない。
本気とも冗談とも取れない口調で周りが心配するのを、ジョセフは苦い表情で傍観していた。
最も仲の良い友人であるスモーキーには、病気を心配された。
「熱が無いなら、弱みでも握られたとか?」
「ははっ。冗談キツイぜ」
「だって、あんなにお互い敵視してたのに」
「まーあれだ。話してみると思ったより波長が合うっていうかなんというか」
意外と鋭い指摘にひやりとしつつ、のらりくらりとスモーキーの追及をかわす。
今までが今までだったのだ。
不自然に映るのも仕方ない。
ありえない。
新手のジョークだろ。
スモーキーとは別にクラスの内外で聞こえた声に、心から同意する。
「仲良いわけじゃねぇし」
ボソリと呟いた嘆きは、誰に届くことなく喧騒の中に消えた。
何故、あの時シーザーの存在に気付かなかったのか。
悔やんでも悔やみきれない。
シーザーもシーザーだ。
気に食わない相手に声に限っているとはいえ好意を寄せられ、普通は嫌がるだろう。
女好きのスケコマシが男に好かれて嬉しいはずがない。
関わりたくないと思って離れて行くべきだ。
そうであってくれ。
声が聞けなくなるのは寂しいなんて言ってみたが、知られた以上そんなことは言っていられない。
「ジョジョ!」
だから、何でお前は近寄ってくるんだよ、このスカタン。
ジョースターから愛称呼びになると共に、呼ぶ声のトーンも変えてきやがった。
「何の用だよ、ツェペリ」
「シーザーって呼んでくれって言っただろ?」
「そうだっけ?」
「釣れないこと言うなよ、ジョジョ」
わざとファミリーネームを口にしたら、殊更優しい声で宥められた。
「なぁ、ジョジョ」
「分かったから!」
名前を呼ぶまで止めないだろうシーザーの口を、両手で塞ぐ。
何度も声を聞くのは、心臓に悪い。
ほんの少し前まで、棘を含んだ声音で忌々し気に名前を呼んでいたくせに。
ジョセフに口を押さえつけられたシーザーの眸が、悪戯に煌めいた。
完全に遊ばれている。
「ほら、呼んでみろ」
「…シーザー」
「よく出来ました」
嫌々名前を呼ぶと、グシャリと頭を撫でられた。
近い。
ジョセフは手を払いのけて、数歩後ろに下がる。
本当に油断ならない男だ。
「お前も物好きだよな」
「は?」
「普通は男に声とはいえ好きなんて言われたら、避けるだろ」
近寄るなと顔面を殴り飛ばされた方が、しっくりくる。
ジョセフが抱いていた疑問を口にすると、シーザーが意味深な視線を向ける。
「面白いからな」
実に分かりやすい答えをありがとう。
「俺はお前の玩具じゃねぇから」
「別に玩具なんて思って無いぜ?」
胡散臭い笑顔で信用できるか。
ジョセフが胡乱な眼差しを向けても、シーザーは心外とばかりに肩を竦めた。
面白いと評価している時点で、退屈しのぎの道具として扱っているだろとツッコミを入れてやりたい。
「どうだか」
「お前と居ると楽しいからな」
素っ気ないジョセフの返しを気にすることなく、シーザーがさらりと聞き捨てならない台詞を吐くものだから、思わず凝視してしまう。
楽しいって何だ。
含みの無い言葉の意味をジョセフは測りかねた。
もっと暇つぶしに過ぎないと言わんばかりの声音で口にしたら良いのに。
「俺は楽しくない」
巻き込まれて迷惑だ。
嬉しいとか微塵も感じて無いから。
「そうか」
更に突いてくると思ったのに、シーザーは穏やかな声で肯定した。
こういうのにも調子狂わされるんだよ。
シーザーと過ごす時間が増えるにつれ、ジョセフは危機感を覚え始めていた。
意外とシーザーは話の分かる奴だった。
これまでは喧嘩ばかりしていたから気付かなかったけれど、声に過剰に反応してしまうことを除けば、シーザーと一緒に居る時間が好きかもしれないと思った。
くだらない話題で盛り上がって、馬鹿やって。
誘われて遊びに出かけることや、互いの家を行き来するようにもなった。
友人という括りであれば、良好な関係を築いていけたに違いない。
出来ないと悟ったのは、ジョセフが声だけでなくシーザーに惹かれつつあることに気付いてしまったからである。
元より女の子を侍らせるシーザーのことを疎ましく感じていたが、今は別の意味で忌々しいと思ってしまう。
気に食わないけど、声は嫌いじゃない。
喧嘩ばかりしていた頃に戻れたら良かった。
現在付き合っている彼女と楽しそうに電話しているシーザーの姿を横目で見ながら、ジョセフは小さく唇を噛んだ。
人の家に遊びに来ておいて放置かよ。
だが、これもいつものことだ。
悩むのも馬鹿らしく、グダグダと考えることを止めた。
シーザーと居る際に携帯電話が鳴って会話が中断されるのは、日常茶飯事。
メールだったり、電話の着信だったり。
目の前にジョセフが居ようが、シーザーの関心は携帯電話とその向こうで返事を待っているだろう可愛らしい女の子へと移るのだ。
「哀しいことを言わないでくれ…カワイイ人」
悲痛な声。
明らかに作っただろうそれに、電話の向こうの彼女とやらは心動かされるのだろうか。
「僕だって今すぐに君を抱きしめたい」
だったら、早く行ってやれよ。
行くと言ったら邪魔してやるけど。
「今夜君が僕のことだけ考えられるように、魔法をかけるよ」
鳥肌が立つようなキザったらしい台詞と胸焼けするような甘ったるい声。
極めつけは、通話口に向かってのキスだった。
耳を突くリップ音に、ジョセフは白い眼を向けた。
よくもまあ舌が回るものである。
どうせ、他の女の子にも似たような台詞ばかり繰り返しているんだろう。
そんな言葉より。
誰に何度使われたか分からないものより、名前を呼ばれるほうがずっと。
あの声に名前を乗せられる方がずっと、心に響くのに。
「ジョジョ」
ぼんやり考えていた矢先、シーザーに呼ばれてジョセフの肩が跳ねる。
電話をしていた時とは真逆の不機嫌そうな表情。
あからさま過ぎて、流石に傷つくぞ。
ジョセフと過ごすのが嫌なら誘いを断らずに、彼女のもとへ駆けつけたら良いだろう。
約束と呼べるほどのものをしていたわけじゃない。
単に帰り道に寄っていくと言い出したシーザーが、ジョセフの家に上がり込んだだけ。
文句なら受けて立つぞ。
「人が話しかけてるのに、ボーっとしてんじゃねぇよ」
「数十秒前まで電話してた奴がそれ言うか?」
可笑しな因縁をつけられ、ジョセフはがっくりと項垂れた。
人のこと散々放って置いてよく言えたものである。
女の子への気遣いを十分の一くらいジョセフに分けてくれ。頼むから。
「なんでお前が女の子にモテるんだか」
絶対に騙されている。
顔か、顔なのか。
声ならジョセフも同意する。
性格だったら、甘いマスクに隠れた本性に気付けと忠告したい。
「お前だって俺のこと好きだろ」
「ちげーよ、馬鹿」
苦い顔をするジョセフへ、シーザーがさらりと言い放つ。
好きとか平然と口にするなよ。
「声が割と嫌いじゃないってだけだ」
「ふーん」
信じていない声だ。
疑わしげな眼に居た堪れなさを感じ、ジョセフは視線を逸らす。
傍らからは小さな笑い声が聞こえ、性悪と心の中で罵ってやった。
調子に乗りやがって。
お前なんて彼女にこっ酷くフラれてしまえ。
他人の不幸を願ったから、罰があたったのか。
四日後の雨の日、傘も差さずに立ち尽くすシーザー見つけてしまう。
学校を出て少し歩いた道端でぼんやりと空を見上げている。
水も滴るイイ男ってか。
小雨から徐々に本降りになりつつある空模様では、正直笑えない。
傘が無いなら、せめて早く帰れ。
動く気配の無いシーザーに焦れたジョセフは、近づいて手にしていた傘を差しだした。
「色男が台無しだな」
「それは、彼女と別れたばかりの俺に対する厭味か?」
聞く前に起きた出来事を告げられて、ジョセフは息を飲む。
触れにくい話題を自分から振ってくるか普通。
「あらら…シーザーちゃんてば、フラれたの?」
「まあ、そんなところだ」
「否定しないんだ」
シーザーならきっと自ら別れを告げた場合でも、彼女に非は無いというに違いない。
つくづく女に弱い男である。
「帰らねぇの」
「雨に濡れたい気分なんだ」
センチメンタルな気分ってか。
もしくは、ただの馬鹿。
ロマンチスト気取りも大概にしておけ。
「カッコつけてんじゃねぇぞ」
溜息交じりにジョセフが傘を押し付けるも、シーザーは受け取らない。
どんだけ強情なんだよ。
ジョセフが帰った後も、暫くは動かない姿が容易に想像出来た。
「煩ぇ。さっさと帰れ」
追い払おうとする手を取って、力任せに引いて歩き出す。
後ろから咎める声が聞こえたが、構うものか。
傘はほとんど意味をなさず、ジョセフの家まで揃って雨に打たれた。
玄関に待たせたシーザーの頭にタオルを掛けるも、反応は薄い。
「ちゃんと拭けよ」
「……」
乱暴に頭を拭いて、ある程度の水気をバスタオルで吸い取ってから、部屋に連れて行く。
Tシャツとジーンズを渡し、濡れた服をそのままにするなら無理やり脱がせると言えば、渋々ながら着替えだした。
ジーンズの裾が僅かに余っているのが、可笑しかった。
「…お節介」
笑うジョセフに気付いたのか、シーザーが忌々し気に睨んでくる。
「目についたからねン」
「ああいう時は、見ないフリするのが優しさってもんだろ」
「優しさねェ。風邪ひかなくて良かったって感謝して欲しいくらいだけど」
「チッ」
「折角なら、恩でも売ってやろうと思った…って言ったらどうする?」
日頃の行いのツケだ。
困らせてやろうと企むジョセフの些細な意趣返しは、成功しなかった。
躊躇いなく伸ばされる手。
「部屋に呼んでナニする気だ?」
「なにもしねーよ」
含みを持たせた声音で喋るな。
頬を優しく撫でる指に、ゾワリと肌が粟立った。
「本当に?」
「当たり前だろ!」
冗談の域を越えてしまう。
シーザーの眼が据わっているのが、恐ろしかった。
フラれたことが余程ショックだったのだろうか。
「慰めろよ」
スケコマシなら、柔らかい女の子でも抱きしめてろ。
「ジョジョ」
言い返したいのに、熱っぽく耳元で囁かれてジョセフの身体が震える。
「止めろって!」
赤くなる耳を食まれ、吐息混じりの甘い声を間近で聞かされ、ジョセフは弱々しい抵抗しか出来なかった。
“慰めろ”などと勝手なこと言いやがって。
ふざけるな。
「どうした、ジョジョォ? この際だ。キスでもしてみるか?」
動揺するジョセフを、シーザーが煽る。
コイツは気付いているのかもしれない。
声だけじゃなく、シーザーに惹かれ始めているジョセフの心に。
そうだとしたら、最悪だ。
「…どうせ出来ないくせに」
「キスのひとつやふたつ騒ぐことじゃないだろ」
「男相手でも?」
「お前相手なら」
反応が面白いと続けるつもりなんだろう。
小馬鹿にしたシーザーの態度に、ジョセフは拳を握りしめた。
最低だ。
恋人と別れた日に、慰めろと男に迫る気が知れない。
「いい加減なこと言いやがって…付き合ってた彼女だって好きじゃ無かったんだろ」
「ああ?」
憤って詰るジョセフに、シーザーが声を荒げた。
「きさまに何が分かる!」
「分かりたくねーな」
シーザーは可笑しい。
「俺は、好きじゃなきゃキスなんてしない」
「好きじゃなくてもキス出来るし、セックスだって出来るだろ」
ほら、やっぱり最低じゃないか。
本気じゃなかった。
図星を突かれて悔しいんだろ。
「俺には、無理だね」
お互いの価値観が違う。
話すだけ無駄だ。
付き合っていられない。
シーザーから視線を逸らした刹那、強い力で押されて視界が反転する。
「試してみるか?」
避ける間もなく重なる唇。
何度か触れるだけのキスを繰り返して。
漸く唇が離れた時には、ジョセフの眸にうっすらと水の膜が張っていた。
「ほらみろ」
最後にペロリと唇を舐め、濡れたそこをシーザーが親指で辿る。
愉悦に細められる双眸。
ペリドットに映り込む自分の姿に、ジョセフは息を飲んだ。
だって、これはではまるで。シーザーに恋する女の子みたいじゃないか。
焦がれるような眼を向けて、続きを強請るような表情を浮かべる自分が信じられなかった。
「違う!」
本音が外に溢れてしまっているのは分かっていても、認めるわけにはいかなかった。
シーザーは、何故笑っていられるのか。
「ジョジョ」
せめてもの抵抗に両手で顔を覆うジョセフに、シーザーが殊更優しく名前を呼ぶ。
「畜生…お前、ほんと最低だ」
甘美な響きと共に、頭や顔、首から鎖骨に掛けて、キスを落とされジョセフは唇を噛んだ。
好きじゃなくてもキスが出来る。
シーザーが口にした言葉が胸に深く刺さった。
魅力的な声で残酷な台詞を音にする男が、憎らしくて、恋しかった。
嫌い。
好きじゃないと口に出来なかったのは、自分の心を偽りたくなかったから。
そして、好きじゃないのに触れられるというシーザーの言葉を否定したかったからだ。
その日、悔しさを滲ませながらも抵抗出来ないのを良いことに、シーザーはとろけるような声で名前を呼び、キスを降らせ続けた。
キスをしたからと言って、二人の関係が変わることは無かった。
否、シーザーの態度が変わらなかったというべきか。
気まずい空気になったり、あの日の余韻を引きずったりしなかったのは有難かった。
しかし、ジョセフが同様の態度を取れるかと言われれば答えはノーである。
好きだと言われたわけじゃない。
むしろ、好きじゃないから出来るのだと遠回しに告げられているようにも思えた。
相変わらずシーザーは女の子に声を掛けるし、ジョセフが特別なわけじゃない。
彼女と別れたという噂は瞬く間に校内に広がり、シーザーを狙う女の子が色めきだった。
新しい恋人が出来るのも時間の問題。
だから、シーザーに新しい彼女が手来たのを切欠に、ジョセフは遠ざかることを決めた。
「ジョジョ今日の帰り」
「スモーキーと先約があるんだ。悪いな」
放課後に誘いを掛けられて断ったものの、シーザーは諦めが悪いようだった。
「じゃあ、明日なら」
「祖母ちゃんの手伝いを頼まれてる」
「明後日も…とは言わないよな?」
「こう見えて忙しいんだよ、俺も」
シーザーの誘いを断るのは初めてだった。
「俺との約束は?」
自分が選ばれると信じて疑わない口振りに、苛立ちが募る。
人の気も知らないで。
「彼女と宜しくやってろよ。またフラれるぞ」
「お前に心配されるまでもない」
心配になるから言っているのだ。
ジョセフの杞憂なんて知らないシーザーの身勝手な言い分に拳を握りしめた。
「ジョジョ」
そうやって名前を呼べば、絆されると思って。
実際その通りだから、自分が厭になる。
奴が優先するべきは、恋人だ。
犬猿の仲とされた過去と違い、現在の二人が友人という関係であったとしても。
シーザーが前の恋人と付き合っていた時だって…と考えて、違和感に気付く。
屋上でジョセフの秘密をシーザーが知ってから、奴が彼女と居る姿を見る機会が減った気がする。
まさか。
ジョセフが原因かと疑って、すぐに違うと首を横に振った。
ありえない。
シーザーがジョセフと同じ想いを抱くとか、どう考えても無茶があるだろう。
見つけた玩具が恋人より魅力的というか、新鮮に映っただけ。
仮に恋人と過ごす時間が減って別れていたとして、玩具に負ける程度の気持ちだったのだ。
次は、きっと違う。
振り回される生活にも疲れていたし、いくら声を聞きたくともリスクが大きすぎる。
好みの声だと思っていただけの過去とは抱く感情も違うのだ。
同じクラスという状況で避け続けるのは中々に骨が折れたが、ひとまず一週間逃げることが出来た。
あからさまな態度に気付き、最初は物言いたげに視線を向けていたシーザーも、次第に接触を図ろうとはしなくなった。
諦めた。
もしくは、飽きただろう。
シーザーと居るのが最近は当たり前だったから、一人の部屋が物足りないなんて思っていた矢先、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
嫌な予感を覚えて覗きこんだディスプレイに浮かぶシーザーの文字。
勿論、無視。
留守電に変わるまで待っていると、暫くして音が途切れる。
これで一安心。
ホッと胸を撫で下ろしていたジョセフの耳を突く電子音が鳴り響いた。
この野郎。
しつこい男は嫌われるぞ。
電話が切れるまで待つこと数分。
電源を落とせなかったのは、ジョセフがシーザーへの想いを捨てきれないからだった。
三回まで待とう。
あと、二回。
もう一回電話を掛けてくれるなら、話しても良いかもしれない。
自分に言い聞かせている間、着信があって欲しいような、もう鳴らないで欲しいような相反する気持ちの間で揺れた。
「もしもし」
「出るのが遅ぇんだよ、スカタン」
今度こそは出よう。
恐る恐る通話ボタンを押したジョセフに向けられた、苛立ち交じりの声。
「何か用?」
「お前が避けるから、こうして電話掛けてんだよ。俺の声は好きなんだろ?」
声を強調したのは、わざとに決まっている。
「声は…ね」
「それだけか?」
自分から声だけと言って、疑わし気に尋ねてくるのは如何なものか。
「他に何があるって?」
「お前が一番分かってるだろ」
「自意識過剰なんじゃねぇの」
悟られていたとしても、認めなければジョセフの勝ちだ。
シーザーの声を聞く度、心が揺らぎそうになるけれど、大丈夫。
「ジョジョ」
必死に耐えるジョセフを嘲笑うかの如く、紡がれる心地良い音。
嘗てシーザーが彼の恋人に向けたものより、情熱的に聞こえたのは、きっと都合の良い思い込みだ。
「逢いたい」
「俺は会いたくない」
名前を呼ばれ、会いたいと懇願され。
イエスという言葉を飲み込み、代わりに拒絶の言葉を絞り出した。
愛なら恋人に囁けば良い。
相手を間違えるな。
「彼女と仲良くやってろよ」
「別れた」
「はぁ?」
突然の告白に、ジョセフはマヌケな声を出してしまった。
フラれたと吐き捨てた日より、衝撃は大きい。
「お前の言う通り、好きじゃないとキス出来ないみたいだ」
つまり、好きではなかったということか。
あっさりと認めたシーザーに、ジョセフは驚きを隠せなかった。
一体、どういう風の吹き回しだ。
また慰めろとでも言うつもりか。
「彼女にキスしようとしたら、お前の顔が浮かんだ」
「そりゃ重症だな。トラウマになってるかもしれねぇから、病院で医者に診てもらえよ」
スケコマシのシーザーが男の顔が浮かんでキスが出来ないなど、誰が信じよう。
しかもジョセフが原因だとか、からかっているとしか思えなかった。
無視し続けた報復の可能性だってある。
「人を病気扱いするな」
「だって、お前女の子大好きじゃん」
病を拗らせていると言われた方がよっぽど納得できる。
「信じられないなら、証拠見せてやるよ」
「どうやって」
「窓の外見ろよ」
言葉に従ってカーテンを開くと、家の前にシーザーが立っていた。
携帯を耳に充てて、ジョセフを真っ直ぐ見据えている。
「シーザー、お前…その顔どうしたんだよ?」
「一悶着あっただけだ」
こちらに向かって話すシーザーの頬に着いたもみじ形の赤い痕に気付いたジョセフが尋ねると、苦々しげに少々揉めたことを教えられた。
彼女に殴られたわけね。
「男前が上がったんじゃねぇの」
「惚れ直したか?」
「別に」
好きじゃない。
「俺が好きなのは、おめーの声だけだし?」
「本当に?」
「ああ」
好きなのは声だけだと主張するジョセフに、殊更甘い響きを持った音が向けられる。
甘すぎて胸が焼けてしまいそうだ。
「素直になれよ」
「俺はいつだって素直だ」
「ジョジョ」
「だから、呼ぶなって」
応えてしまいたくなる。
シーザーの懇願する声に、揺らぐ心を自覚してジョセフは唇を噛んだ。
電話越しで良かった。
きっと、余計なノイズがなかったら、本音を零してしまっただろう。
「ジョジョ」
「何だよ」
いい加減電話を切らなければと思う一方で、未だ電源ボタンを押せない指。
シーザーは、ジョセフの躊躇いを見透かしているに違いない。
「…キスしたい」
唇を重ねた日を思わせる響き。
あの瞬間より声に劣情のような色が混じって聞こえるのは、ジョセフだけだろうか。
ぐらりと視界が揺れ、軽い眩暈を覚えた。
抗えない。
「お前さ、ほんと狡いよな」
電話を切ることも、帰れと突き放すことも出来なくて。
「なあ…もっかい、名前呼んで」
呼んだら、本音を伝えられるから。
だから。
もう一度と強請ると、焦がれていた声で名前を紡がれる。
何度も、何度も、とても愛しげに囁かれ、転がっていた心は誘う手の中へ落ちた。