シンティランテ10


触れるだけのキスは、とても短いものだった。
離れてしまった体温に気付いて、ジョセフは慌てて目を開ける。
遠ざかるシーザーのシャツを掴めば、頭を抱き込まれて米神にチュッと音を立てて口づけられた。
これじゃあ、いつもと同じじゃないか。
ムードが台無しだ。
人が折角、意を決して伝えようとしたのに。
子供を宥めるようなシーザーの態度に、ジョセフは唇を尖らせた。
「そんなにキスして欲しいのか?」
「ちげーよ、馬鹿」
からかい混じりの声と共にキュッと唇を摘まれ、顔を逸らす。
ムカつく。
腹が立つのにシーザーから離れるのは嫌で、顔を隠すように奴の胸に顔を押し付ける。
表情が見えなくなったジョセフの頭を、慣れた手つきで撫でるシーザー。
やっぱり、落ち着くんだよな。
悔しいが、シーザーに触れられることに慣れている事実を自覚せざるを得なかった。
こんなはずじゃなかったのに。
過ごした日々は、ジョセフの心をゆっくりと浸食していた。

寂しい。
恋しい。

胸に広がる想いと共に、焦りが再び甦る。
忘れてはいけない。
肝心の問題は、まだ解決していないのだ。
シーザーの胸に頭を預けながら、これからのことを考える。
いつ此処から出ていくのかすら、まだ聞いていない。
次の引っ越し先は、どれくらい離れた場所にあるのだろう。
頻繁に顔を出しても許してくれるだろうか。
悶々と考えるジョセフを他所に、シーザーは至るところにキスを降らせ続けていた。
チラリと覗き見た、自分に向けられる優しい眼差しがくすぐったかった。
「何があったんだ?」
気遣う声は、殊更優しくて、余計に離れ難くなる。
「それは、その…おめーが出てくって」
聞いたからで。
出て行って欲しくないと思ったからで。
「はぁ?」
シーザーの緊張感のない声に、ジョセフは苛立った。
何だその疑問符は。
それで誤魔化しているつもりなのか。
ジッと疑惑の目を向ければ、シーザーは目を丸くして首を傾げていた。
「荷物整理しておいて、それはねぇだろ」
単に部屋を掃除していたとは言わせない。
知らないといった表情に、ジョセフは呆れた。
「兄ちゃんに片付けろって言われたんだろ?」
「ああ…そのことか」
漸く納得いった。
ジョセフの言わんとすることを理解したシーザーは、苦笑いを浮かべた。
「お前こそ早く片付けなくて良いのか?」
確かにジョナサンに言われたが、それどころじゃない。
お前が出て行く話をしているんだよ。
話を逸らすな。
「明日、ジョータロー…だったか? 従弟のソイツが来るって言ってたぜ」
片づけを促すシーザーを睨むジョセフに告げられたのは、驚きの事実だった。
「明日!?」
急にも程がある。
ジョナサンは、シーザーを明日にも追い出すつもりなのだろうか。
その割に、目の前の男はやけに落ち着いている。
次の宛があって既に話をつけているのかもしれない。
一体、誰を頼るつもりなのだろう。
今日や明日で新しい住居が見つかるとは思えない。
友人の家に泊めてもらうのか、実家に戻るのか。
もしかしたら、親しい女の子の部屋に転がりこむとか。
彼に好意を抱く女の子なら、間違いなく受け入れるはずだ。
共に暮らす相手に優しくするだろう。
ジョセフにそうしたように。
更には、キスやそれ以上のことをしたら。
嫌だ。
そこまで考えて、ジョセフは自分の想いを告げて無いことに気付く。
シーザーの気持ちだって聞いていない。
まだ、傍に居て欲しいとすら伝えていないのだ。
「ジョセフー!」
口を開いて告げようとした瞬間、タイミング悪くジョナサンに呼ばれる。
「呼んでるぞ」
「分かってるッ!」
本当は行きたくない。
少しでも時間が惜しいけれど、兄の呼びかけに応じ無いわけにはいかなかった。
「ほら、行くぞ」
先に立ちあがったシーザーに手を引かれ、リビングに向った。





声のしたリビングに居たのは、ジョナサンだけではなかった。
久々に会う従弟は、成長期なのかジョセフとほぼ同じくらいの背丈になっていた。
辛うじて自分が勝っているかと思ったが、これは負けてしまったかもしれない。
恨めし気に睨んでも、承太郎は気にした様子無く久しぶりだと言って簡単な挨拶をしただけだった。
口数が少なく、ぶっきら棒なのは変わっていないようだ。
否、今はそんな悠長な再会を喜んでいる場合じゃない。
「あまり荷物は無いって言うんだけどね。少しだけ先に運んでおこうと思って」
ジョナサンの言葉に、シーザーが言っていた明日という単語の真実味が増す。
嘘だろ。
固まるジョセフを置いて話が進んでいく。
「叔母さんに挨拶してくるから、留守番と片付け頼んだよ」
「待って、兄ちゃんッ!」
「どうしたの?」
慌てて呼び止めるジョセフに、兄は不思議そうに首を傾げた。
「承太郎は、明日から此処で暮らすんだよな?」
「そうだよ」
シーザーの勘違いかもしれない。
期待して投げかけた問いの答えは、否定ではなく肯定だった。
「シーザーは…?」
「だから、今片付けて貰ってるんじゃないか」
知ってる。
荷物を整理する様をこの目で見たのだ。
「ジョセフもなるべく今日中に」
「…嫌だ」
「ジョセフ?」
やっぱり駄目だ。
兄を困らせたくないと思ったけれど、無理だ。
我儘だと呆れられていい。
駄々を捏ねるなと怒られても良い。
もっと、傍に居たいと強く思ったのだ。
「そうだ。俺の部屋を承太郎が一緒に使えば良いだろ?」
承太郎を追い出すつもりは無かった。
だからと言って、生活リズムの違う兄と同じ部屋で暮らすのは難しい。
ならば、承太郎とジョセフが同じ部屋を使えば済む話だ。
「俺は御免だぜ」
我ながら名案だと思った意見は、あっさりと承太郎に退けられた。
「ちょーっと部屋が狭くなるだけじゃねぇか」
ジョナサンの代わりに、即座に拒否した承太郎にジョセフは喰って掛かる。
此処で退いて堪るか。
「俺と一緒が嫌なのかよ」
「騒がしいのは好きじゃねぇんだ」
人が必死に頼んでいるのに、それは無いだろ。
昔はもっと可愛げがあった。
ジョセフを慕っていた素直な子供だったのに。
「てめーは喧し過ぎる」
反抗期なのだろうか。
それとも、構い過ぎたのが仇となったのか。
承太郎は中々に頑固だ。
ジョセフが反論する程、意固地になるだろう。
「兄ちゃんからも言ってやってくれよ!」
思えば、ジョナサンの言う事は割と聞いていた気がする。
オロオロと様子を伺っていた兄に助けを求めた。
「承太郎は俺と一緒で良いよな?」
家の権限は全て兄にある。
その彼が許可を出してくれたら、ジョセフの勝ちだ。
なのに、ジョナサンは首を横に振って。
「君の方がお兄さんなんだから、承太郎を困らせたら駄目だろ」
ジョセフの意見を切り捨てた。
「でも…」
いくら兄に諭されても、頷けないものがある。
俯いて嫌だと首を振るジョセフに向けられるジョナサンの戸惑った声。
「あのね、ジョセフ」
聞きたくない。
どうせ、説教でもするつもりなんだろ。
急な話を持ち掛けたのは、ジョナサンのくせに。
「勘違いして突っ走り過ぎだ、スカタン」
兄に八つ当たりしかけた矢先、頭に軽い衝撃が走った。
痛い。
小突くっていうより、叩いただろこれ。
「邪魔すんじゃねぇよ、シーザー!」
誰のせいだと思っているんだ。
シーザーに関することで必死になっているというのに、当の本人がこれかよ。
「落ち着けと言っているんだ」
これが、落ち着いていられるか。
掴みかからんとするジョセフの肩を押さえ、シーザーが宥める。
「だから、話をちゃああんと聞けと言っているんだ」
聞いたって変わらない。
だったら、承太郎を説得してくれ。
睨み合う形になるシーザーとジョセフ。
「そんなに、シーザーと同室が嫌なのかい?」
喧嘩腰な二人に、ジョナサンが訝しげに尋ねる。
「えっ?」
「君たちは仲が良いはずだろ?」
最近は特に顕著だったから、問題ないと思ったと語る兄。
「シーザーは構わないと言ってくれたけれど、ジョセフが嫌だと言うなら」
「待った!ちょっと待ってくれ!」
どういうことだ。
シーザーと同室。
そう聞こえたのは、聞き違いだろうか。
「短い期間のことだし、二人でも大丈夫だって思ったんだけど…」
ジョナサンは限られた日数であることを付け加えた。
短いと敢えて言うくらいだ。
これは、もしかしたら、もしかするかもしれない。
シーザーの言葉通り、勘違いで騒いでしまったのではないだろうか。
「俺もお前も、部屋を片付けるように頼まれただけだ」
硬直するジョセフに、シーザーの言葉がぐさりと刺さる。
反論出来なかった。
よくよく考えたら、ジョセフまで部屋を片付けるのは可笑しい。
シーザーの部屋を空けるだけならジョセフは関係ないのに。
「ごめん。僕がはっきり言わなかったせいだね」
状況を理解したらしいジョナサンの謝罪が、決定打となった。
まずい。
恥ずかしい。
穴があるなら、すぐにでも埋めて欲しかった。
「…やれやれだぜ」
傍観していた承太郎の溜め息が引き金となり、ジョセフはその場にしゃがみ込んだ。
承太郎が同室が嫌だと言わなければ、シーザーがもっと早く真実を告げていれば。
他人を恨んだところで結果は変わらない。
早合点してしまった自分が悪いのだ。
「とりあえず、僕らは叔母さんのところに行ってくるね」
しゃがみ込んだまま項垂れるジョセフの肩を、ジョナサンが叩いて声を掛けた。
横目で見た兄は、仕方ないと言った表情で笑っていた。
「明日までに、部屋を片付けておくんだよ」
言葉なく頷くジョセフの頭を撫でたジョナサンは、承太郎を伴って出ていく。


良かった。
居た堪れない空気から抜け出し、ホッと息を吐いたのも束の間。
「いつまでそうしてるつもりだ?」
いつの間にか膝をついていたシーザーが、しゃがみ込むジョセフに目線を合わせる。
まだコイツが居たんだった。
すっかり忘れていた。
というより、多分忘れたかった。
「様子が可笑しいと思ったんだ」
部屋に入ってきた時から違和感があった。
シーザーに指摘されて、ジョセフは膝に顔を埋める。
これもまた思い出すと恥ずかしい。
もうこの件には触れないで欲しかった。
しかし、シーザーはジョセフの願いに反して核心を突いてきた。
「そんなに俺と離れたくなかったのか」
尋ねる台詞でありながら、その声は断定するものだった。
完全にバレてしまっている。
当たり前だ。
これで気付かなかったら、余程の鈍感だ。
柄にもなく必死になって縋ったんだ。
今更、誤魔化すことは出来ない。
「…悪いかよ」
投げやりに言い捨てて、シーザーの反応を伺う。
呆れただろうか。
今度は話を聞けと叱るだろうか。
シーザーの反応は、ジョセフが予想したどれとも違った。
そっと触れる指。
顔を見せてくれと懇願されて渋々頭を持ち上げた先にあったのは、零れんばかりの笑み。
「嬉しいに決まってるだろ」
幸せをかみしめる声が聞こえるのと同時に、シーザーがジョセフを抱きしめる。
愛しげな眼差しが、近づく。
逃げることも、拒むことも出来た。
シーザーなりに猶予を与えたつもりなのだろう。
けれど、もう遅い。
ジョセフの手はシーザーを離すことが出来ないのだから。
時間にしてほんの僅かのことながら、触れるまでの時間が酷くもどかしく感じられた。
衝動のまま自分から口づける。



シーザーの片手が優しく髪を撫で、もう一方がジョセフの左手と繋がれる。
触れるだけのキスを繰り返して、額をくっつけて笑う。
少しだけ開いた口の隙間に舌を捩じ込まれ、ジョセフのそれを絡め取られた。
負けじと自ら舌を絡ませると、シーザーの眸が驚きの色を宿す。
次いで満足そうに細められ、恥ずかしさから再び眼を閉じた。
意趣返ししたつもりが、結局はこっちが振り回されている。
スケコマシめ。
やはり、想いを告げるのは止めてしまおうか。
終わりの見えないキスの応酬の中で考える。
いっそ、唇に噛みついてやろうか。
シーザーなら、きっと些細な抵抗すら愛しいと微笑むのだろうけれど。


結局、最後は二人して顔を突き合わせて、どちらが先に告げるか揉めて。
「ジョジョ、俺に言うべきことはないか?」
「シーザーこそ、俺に言うことあるんじゃない?」
ジョセフに言わせたいシーザーが折れるまで、二人の言い合いは続いた。
いつまでも待つと語る男の愛の囁きは、甘くて。
「ぜーったいに言うもんかッ!」
素直じゃないとからかうシーザーの視線にむず痒さを感じながら、誰にも聞こえない声で小さく呟く。
「今、何か言ったか?」
声は認識しても、流石に言葉までは聞き取れなかったらしい。
不満そうに、聞こえなかったとぼやくシーザーは、それでも何処か満足そうで。
「二度目は無いからな!」
対するジョセフは、赤くなった顔を背けて声を荒げる。
強がる心と裏腹に、互いを繋ぐ手が離されることは無かった。