シンティランテ03
まずい。
これは非常に由々しき事態だ。
折角、ジョナサンに気付かれることなく体調も回復したというのに、次はこれか。
目の前に突き付けられた紙切れと、普段は温厚な兄の険しい表情とを交互に見たジョセフはひっそり溜息を零した。
手を抜き過ぎたのがまずかった。
この様子だと、最近授業をサボり気味だったのも知られているだろう。
「今日…いや、これからは店を手伝わなくて良いから」
「はぁ? 何言っちゃってんの?」
「君は勉強に集中していれば良いって言ったんだ」
学生の本分は勉強である。
ジョナサンの主張は尤もだった。
けれど、大人しく従うわけにはいかない。
只でさえ、ひとりで頑張ろうとする人なのだ。
「困るのは、兄ちゃんでしょ」
「僕は君に頼らなくても十分やっていける!」
ストッパーが居ないと無茶ばかりする兄を心配しての言葉は、上手く伝わらなかった。
心外だと憤るのは、此処までやってきたジョナサンなりの自負があるからだろう。
普段ならやんわりと宥めただろう場面でジョセフを突き放す。
自業自得だ。
面倒だと手を抜いていたから、そのツケがきた。
兄に知られないよう上手く立ち回らなかった自分が悪い。
「何だよ…それ」
ジョナサンに他意があったわけではない。
純粋に、ジョセフのことを気遣っての行動だ。
頭では分かっていても要らないと言われたことに感情が追いつかなくて、唇を噛みしめた。
「シーザーに君の勉強をみてもらうよう頼んだから、ちゃんと言う事聞くんだよ?」
止めてくれ。
違う。
こんな風に頭を撫でて欲しかったわけじゃない。
「…分かったよ、兄ちゃん」
必要ないと跳ね除けても、ジョナサンは聞き入れないだろう。
一度、言い出したら聞かないことをジョセフは十分過ぎる程知っている。
これ以上、兄と揉めるのも嫌だった。
次は、頑張るから。
心にもない台詞を吐いて、店へとジョナサンを送り出す。
「じゃあ、僕は行くからシーザーが帰ってきたら」
「分かってるって」
笑ながらヒラヒラと手を振ると、兄は名残惜しそうな表情のまま部屋を出た。
扉の向こうに消える背中が見えなくなってから、ジョセフはくしゃりと顔を歪める。
「兄ちゃんのバーカ」
誰が従うものか。
勉強など教えられなくても、授業で聞いた内容は理解しているのだ。
次のテストで良い点を取れば良い話である。
「はー、やってらんねぇ」
問題は、シーザーだ。
今は大学に行っているが、帰ってくるなりジョナサンに頼まれた通り勉強だ何だと煩く捲し立てるに違いない。
あの世話焼きに任せる辺り、兄も弟のことをよく理解しているということか。
「逃げたら後が厄介だよな…」
ジョナサンが本気で怒るとジョセフも手が付けられないし、出来るなら兄にこれ以上叱られたくない。
部屋に籠って寝たフリも考えたが、叩き起こされるのは確実だ。
さて、どうしたものか。
対策を考えるジョセフの脳裏に、キッチンの片隅に隠すように置かれたボトルの存在が浮かぶ。
数日前に、見つけた年代物のワインらしきそれは、恐らくシーザーの私物だ。
人目を避けるように置いていたことを考慮すると、中々に高価なものかもしれない。
「ちょーっと、拝借しちゃおうかなァ…なんて」
ムシャクシャした気分も手伝って、アルコールを煽りたい気分だった。
シーザーも大事にしていた酒を飲まれたとなれば、勉強を教えてやろうなんて気も削がれるだろう。
「悪いな、シーザー」
言葉とは裏腹に嬉しそうな声で、ジョセフはキッチンからワインボトルを持ち出す。
グラスを用意し、コルクを遠慮なく引き抜いて。
「憂鬱な今日にカンパーイ!」
ワインを注いだグラスを持ち上げ、一気に飲み込んだ。
小刻みに揺らされる身体。
「オイ、起きろ」
段々と大きくなる声。
煩い。
邪魔をするな。
重い瞼を持ち上げるのが億劫で、無意識に手を振り払う。
「ジョジョ、いい加減にしろよ」
「んー、あと…三十分」
「三十分は長すぎだ、スカタン」
ゴンッ。
「イテッ!」
むにゃむにゃと寝惚けながら答えるジョセフの耳に、鈍い音が響く。
同時に痛みを感じ、慌てて起き上がる。
「何しやがるッ!」
「昼間っから酒飲んで寝てんじゃねぇよ、未成年のくせに」
殴られた箇所を押さえながら犯人である男を睨めば、逆に睨み返された。
「うるせー!てめーに関係ねぇだろ」
ジョナサンに言いつけたいなら、好きにしたら良い。
今日は引き下がらないぞ、この野郎。
「これは、俺のワインだ。関係は十分にあると思うが、どうだ?」
意固地になるジョセフと目線を合わせたシーザーが、ボトルを握ってにっこりと尋ねてくる。
「この家にある時点で俺のものだ」
取られたくなかったら名前を書いておけ。
子供染みた屁理屈を並べると、シーザーは盛大な溜息を吐いた。
どうせ、馬鹿だとか、くだらないとか思ってんだろ。
言っとくが、酔っぱらってねぇぞ。
「ジョジョ、お前」
「何だよ…俺は酔ってねぇぞ。あと、勉強なら間に合ってるからな」
だから、面倒見るとか必要無いし、放っておいてくれ。
構われたくない。
風邪をひいた時だってそうだ。
弱いところとか、こういう情けないところを人になんて見られたくないのだ。
それは、家族である兄にだって同じで。
「ジョースターさんと何かあったんだろ?」
二度もシーザーに寄りかかるなんて御免だと考えていたその時、核心に触れられて僅かに動揺した。
この程度なら気付かれない。
「喧嘩したのか。珍しいな」
なんて思ったのは、間違いだった。
余計なところで勘の働く男は、自然な動作で頭を撫でてきた。
だから、こういうことを平然とするなっての。
「別に兄弟なら普通でしょ。」
シーザー相手に隠しても無駄だと早々に諦めたジョセフは、机に突っ伏して顔を隠す。
「へーき、へーき」
「嘘吐け」
「そもそも、喧嘩じゃねーし」
喧嘩にすらなっていない。
ジョセフが眼を合わせることなく話を続ける間も、シーザーは一定のリズムで髪を撫で続ける。
「平気そうには見えないけどな」
「うるせー触んなッ!」
甘やかそうとする手に耐えられなくなり、ジョセフは勢いよく立ちあがった。
「もう良いのか?」
仕方ない奴だと眉根を下げて笑うシーザーに問われ、グッと言葉に詰まる。
何で慰められたような形になってんだよ。
こんなつもりじゃなかった。
こうなったら、もう自棄だ。
ボトルに残っていたワインを全て飲み干したジョセフは、勢いのままシーザーに抱きつく。
「シーザーちゃん慰めてン!」
思い切り体重を掛けて寄りかかった瞬間、二人の身体が傾ぐ。
相手を下敷きにしたことで衝撃は少なかったものの、シーザーはは床に身体を打ち付けたようで顔を歪めていた。
「いきなり飛びつくやつがあるかッ!」
咄嗟とはいえ、避ける余裕があったはずだ。
文句を言うくらいなら、逃げれば良いのに。
シーザーのさり気ない行動が憎らしくて、彼の胸に顔を埋めた。
そのまま無言でグリグリと押しつけていると、ポンポンと背中を撫でられる。
完全に子ども扱いだ。
もしくは、酔っ払い扱いか。
「さっさと部屋戻って寝ろよ」
「ヤダ」
宥められると余計に反発したくなるのが天邪鬼の性だ。
引きはがされまいとギュッと抱きつく。
「シーザーちゃんと一緒じゃないとヤダ」
酔いが廻ってきたのかもしれない。
思わず口から出た言葉に、ジョセフ自身驚きを隠せなかった。
いつもの冗談だ。
アルコールで饒舌になった口から出た、単なる軽口。
「あらら?本気にしちゃった?」
反応の無い相手が気になって顔を上げたジョセフの額に、シーザーの唇が触れた。
ある種の事故とはいえ、既に舌を入れたキスとかされたわけだが、今の奴は素面なわけで。
寝惚けたりもしてないわけで。
「…は?え?」
ジョセフの思考は追いつかず、混乱した。
戸惑っている間に、今度はシーザーの方からぎゅうぎゅうと抱きしめられ息苦しさを覚える。
「シーザーちゃん? あのさ、こういうのはネタだから」
本気にされるのは困る。
段々と恥ずかしくなってきて、悪ふざけが過ぎたと謝っても腕の力は緩まない。
これじゃ、前と同じパターンじゃないか。
流されるなと思っても、人の体温というのは落ち着くもので。
「おやすみ、ジョジョ」
アルコールで齎された睡魔がタイミングよく襲ってきたこともあり、ジョセフの意識は次第に遠のいた。
「どういうことだ…これは」
眩しいと思って目を開けたら、朝だった。
しかも、やたらと窮屈だ。
自分の部屋じゃない。
未だ覚醒しない頭で状況を把握しようとするジョセフは、視界に入る景色の違和感に気付く。
「ゲッ。シーザー」
視線を落とした先には、腰に腕を回したまま半裸で眠るシーザーの姿。
二人でこの狭いベッドに寝てたのかよ。
自分のことながら途中で目覚めなかったことに、呆れた。
「えーっと、何だっけ」
落ち着け。
落ち着いて、思い出せ。
昨夜、何があったのかよく考えろ。
「…兄ちゃんに叱られて、シーザーのワイン飲んで、アイツが帰ってきて」
それより後の記憶を辿り、ジョセフはその場で項垂れた。
叶うならば、忘れてしまいたかった。
慰められるとか、抱きついて甘えるとか、有りえないだろ。
ノリとはいえ何てことをしてしまったんだと頭を抱えた。
中途半端な酒は駄目だ。
いっそのこと、前後不覚になるくらいアルコールを摂取してしまえば良かった。
「…起きたのか?」
このタイミングで起きるなよ。
図ったようなシーザーの声に、ジョセフは身構えた。
寝惚けたまま女と間違えられてキスされるのは勘弁だ。
口元をガードして頷くと、エメラルドを思わせる眼がゆっくり細められた。
そして、唇を覆う指へとチュッと音を立ててキスを贈られる。
反射的に手を離した隙を狙って、迫るシーザーの唇。
「ストップ!」
焦るジョセフが寸でのところで差し入れた片手で、何とか押しやった。
「昨夜はあんなに盛り上がったのに釣れないな」
「いや、嘘だろ?」
嘘に決まっている。
だって、ジョセフはしっかり覚えていた。
「お前から迫ってきたんだぜ?」
強ち間違っていないが、明らかに語弊がある。
心外だ。
人聞き悪い。
「オーノー!今すぐてめーの頭ぶん殴って、空っぽにしてやるよ!」
ただでさえ、どんな顔したら良いのかと途方に暮れていたのに、これは無い。
ジョセフが手を振り上げると、シーザーが肩を竦めて笑った。
「冗談だ」
「おめーの眼が本気すぎて笑えねぇよ」
キスを仕掛けてきたシーザーの顔が真剣だったから、少し。
ほんの少しだけビビったじゃねぇか、畜生。
「調子戻ったな、その方がお前らしい」
臍を曲げるジョセフの頭を今日も撫でるシーザーが、嬉しそうに口元を緩める。
だから、自分のことみたいに喜ぶなっての。
居心地の悪さを感じて、急いでベッドを下りそのままシーザーの部屋を飛び出した。
その瞬間。
「ジョセフ」
リビングで待ち構えていたジョナサンに呼び止められた。
最悪だ。
穏やかに見える兄の眼は、笑っていなかった。
何故、起きているかなど聞くだけ愚問だろう。
片手に握られている空のワインボトルが視界に入り、背中を汗が伝った。
ジョセフのことを心配するなら、ジョナサンに上手く誤魔化しておいてくれよ。
部屋に残したシーザーへの八つ当たり染みた言葉を飲み込み、兄に向き直る。
「あー、これは、その」
「君にお酒はまだ早いね」
「…ごめん」
咎められる理由が理由だ。
素直に謝るから、アルコールに手を出した原因まで追求しないでくれ。
ジョナサンの反応を伺っていると、彼は小さく息を吐いて。
「仕方ないなぁ、ジョセフは」
いつまでも手がかかると笑い、昨日は言い過ぎたと謝罪した。
彼も彼で思うところがあったのだろう。
微妙に赤くなった目に、ジョナサンの心配が見受けられて苦笑いが零れた。
きっと、気になって眠れないまま夜を明かしたのだ。
「兄ちゃんも、世話が焼けるけどな」
真っ直ぐだからこそ不器用で手がかかる。
「弟の癖に生意気だよ」
軽口を叩くのはこの口かと頬を抓られても痛くはなかった。
こんな他愛無いやりとりをするのは、久々だ。
怒られるのは嫌いだが、困った顔で世話の焼けると言いながら甘やかされるのは好きだった。
頭を撫でる手は優しいけれど、改めて撫でられたことでシーザーとは違うと感じた。
アイツは、そう。
「おはようシーザー」
違いをぼんやり考えていたところに、第三者に向けたジョナサンの声が耳を吐く。
まさか。
背後の気配に厭な予感しか覚えない。
恐る恐る振り返ると、扉の前で所在なさ気に立つシーザーが視界に入った。
「なんかお邪魔だったみたいで」
流れるように出る台詞が白々しい。
見てやがったのか。
いつから背後に立っていたのだろう。
ニヤニヤと性質の悪い笑みを浮かべるシーザーの物言いたげな表情が忌々しかった。
生温い表情浮かべてるんじゃねぇぞ。
というか、状況を察して部屋に籠ってろよ。
空気の読めない男は嫌われるぜ。
お節介。
スケコマシ。
ジョナサンの手前、悪態を吐けない代わりに心の中で罵ってやる。
そんなこちらの気持ちを知ってか、シーザーは軽く背中を叩いて。
「良かったな、ブラコン」
ジョセフにだけ聞こえる声で意地悪く囁いた。
やっぱり、厭な奴だ。コイツは。
兄と比べる自体、烏滸がましい。
フンッと視線を逸らしたジョセフは、仕返しとばかりにシーザーの脚を思い切り踏み付けてやった。